珠玉の小品集 > 南京の基督 > 南京の基督本文
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  1. 南京基督
  2. 芥川龍之介





  3. ある夜半であった。
  4. 南京奇望街の ある家の一間で、青ざめ中国少女一人古びたテーブルの上に頬杖をついて、入れ西瓜退屈そうに噛み破って いた。
  5. テーブルの上には置きランプが、薄 暗い光を放っていた。
  6. その部屋の中を明るくすると言うよりもむしろいっそう陰鬱な効果を与えていた。
  7. 壁紙剥げかかっ部屋には、毛布はみ出し寝台があって、埃臭そうな垂らしていた。
  8. それから、テーブルの向こうには、これも古び椅子まるで忘れら れたように置き捨ててあった。
  9. が、そのはどこを見ても、装飾らしい家具なぞ何一つ見当らなかった。


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  11. 少女それにもかかわらず西瓜噛みやめては、時々涼しい眼を上げて、テーブルの一方面しじっと眺めやることがあった。
  12. 見るとなるほどそのには、すぐ鼻の先折れ釘に、小さな真鍮しんちゅう十字架じゅうじかつつましやかに掛かって いた。
  13. そしてその十字架の上には、稚拙な受難キリストが、高々と両腕ひろげながら、手ずれ浮き彫輪廓のようにぼんやり浮か べていた。
  14. 少女は、このイエスを見 る毎に長い睫毛まつげ後ろ寂しいが、一瞬どこかへ見えなくなって、その代わりに無邪気な希望が、生き生きとよ みがえっているらしかった。
  15. が、すぐにまた視線移ると、彼女必ず吐息を漏らして、光沢つやの ない繻子じゅ す上衣う わぎ所在なさそうに落としながら、もう一度西瓜をぽつりぽつり噛み出すのであった。
  16. 少女金花言って、貧しい家計助けるために夜々よなよなそ の部屋迎える当年十五娼婦しょうふで あった。
  17. 秦淮しんわいに 多い娼婦の中には、金花程度容貌持ち主なら、何人でもいるに違いなかった。
  18. が、金花ほど気立て優しい少女が、二人とこの土地にいるかどう か、それは少なくとも疑 問であった。
  19. 彼女朋 輩ほうばい娼婦違って、嘘もつかなければ我がままも言わず、夜毎 に愉快そうな微笑を浮かべて、この陰鬱な部屋訪れるさまざまな戯れていた。
  20. そして、彼等の払って行くが、稀に約束がくより多かった時は、たった一人父親に、一杯でも余計好きすきさけを飲ま せてやることを楽しみにしていた。
  21. こういう金花行状は、 もちろん彼女生まれつきにも、よっているに違いなかった。
  22. しかしまだその理由があるとしたら、それは金花子供の時から、の上の十字架じゅうじか示すしめす通りとおり亡くなっなくなっ母親教えられた、ローマ・カトリック教ろー ま・かとりっくきょう信 仰しんこうずっと持ち続けつ づけているからであった。
  23. ——そう言えば今年上海競馬見物かたがた南部中国風光探り若い日本の旅行家が、物好きにも金花部屋一夜を明かしたことがあった。
  24. その時葉巻銜えて、洋服軽々と小さな金花抱いていたが、ふとの上の十字架を見ると、不 審そうなをしながら、
  25. お前キリスト教徒かい。」
  26. と、おぼつかない中国語話しかけた。
  27. ええ、五つの 時に洗礼せんれい受 けうけました。」
  28. そしてこんな商売をしているのかい。」
  29. にはこの瞬間皮 肉な調子交じったようであった。
  30. が、金花に、鴉髻あ けいか しらもたせかけながら、いつもの通り晴れ晴れと糸 切歯の見える笑みを洩らした。
  31. この商売をしなければ、お父様餓え死をしてしまいますから。」
  32. お前父親老人なのかい。」
  33. ええ——もう腰も立たないのです。」
  34. しかしだね、——しかしこんな稼業を していたのでは、天国に行けないと思いはしないか。」
  35. いいえ。」
  36. 金花ちょ いと十字架眺めながら、考え深そうな眼つきになった。
  37. 天国にい らっしゃるキリストは、きっとの気持ちを汲み取ってくださると思いますから。
  38. ——それでなければキリスト姚家巷警察署のお役 人同じですもの。」
  39. 若い日本の旅行家微笑した。
  40. そして上衣うわぎポケット探ると、翡翠耳環一双出して、手 ずから彼女へ下げてやった。
  41. これはさっ き日本へ土産に買った耳環だが、今夜記念お前にやる よ。」——
  42. 金花初めて客をとった夜から、実際こういう確信自ら安 んじていたのであった。
  43. ところがかれこれ一月ばかり前から、この敬虔な娼婦は不幸にも悪性あくせい梅毒ばいどく病むやむ体 になった。
  44. これを聞いた朋輩ちん山茶さんさは、痛み止めるの によいと言って、アヘン酒を飲むことを教えてくれた。
  45. その後またやはり朋輩もう迎春げいしゅんは、彼女自身服用し汞 藍丸こうらんがん迦路米かろまい残りを、親切にもわざわざ持って来てくれた。
  46. が、金花はどう したものか、をとらずに引きこもっていても、一向に快方には向かわなかっ た。
  47. するとある日陳山茶が、金花部屋へ遊びに来た時に、こんな迷信じみ療法尤もらしく話して聞かせた。
  48. あなたの病気はお客から移った のだから、早く誰かに移し返しておしまいなさいよ。
  49. そうすればきっと二三日中に、よくなってしまうに違いな いわ。」
  50. 金花頬杖をついたまま、浮かない顔色改めな かった。
  51. が、山茶言葉に は多少好奇心動かした とみえて、
  52. ほんとう?」と、軽く聞き返した。
  53. ええ、ほんとうだわ。
  54. 姉 さんねえもあなたのように、どうしても病気が治らなかったのよ。
  55. それでもお客移し返した ら、じきによくなってしまったわ。」
  56. そのお客はどうなった の?」
  57. お客それはか わいそうよ。
  58. おかげで目までつぶれたって言うわ。」
  59. 山茶部屋去っ金花独りかけ十字架の前に跪いて、受難の キリストを仰ぎ見ながら、熱心にこういう祈祷捧げた。
  60. 天国にいらっしゃるキリスト
  61. はお父様養うために、いやしい商売致しております。
  62. しかし商売は、一人汚すには、にも迷惑はかけておりません。
  63. ですからはこのまま死んでも、必ず天国に行 けると思っておりました。
  64. けれども唯今は、お客にこの移さない限り、今までのような商売致し参ることはで きません。
  65. して見ればたとえ餓え死をしても、——そうすれば、このも、治るそうでございますが、——お客一つ寝台ないように、心がけねばなるまい存じます。
  66. さもなければ私は、私ども幸せの ために、怨みもない他人不幸せに致すことになりますから。
  67. しかし何と申してもでございます。
  68. いつ何時どんな誘惑に陥らないもので もございません
  69. 天国にいらっしゃるキリスト
  70. どうかをお守りくださいまし。
  71. はあなたお一人に、頼るもののない女でございますから。」


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  73. こう決心し宗金花は、その後山茶迎春に いくら商売勧められても、強情にを とらずにいた。
  74. また時々彼女部屋へ、なじみの客遊びに来 ても、一緒煙草でも吸い合う外に決して従わなかった。
  75. 恐しい病気持っているのです。
  76. へいらっしゃると、あなたにも移りますよ。」
  77. それでも酔って でもいて、無理に彼女自由にしようとすると、金花はいつもこう言って、実際彼女病んでいる証 拠示すことさえはばからなかった。
  78. だから彼女部屋には、おいおい遊びに来 なくなった。
  79. と同時にまた彼女家計も、一 日毎に苦しくなっていった。……
  80. 今夜彼女はこ のテーブルに寄りかかって、長いぼんやり座ってい た。
  81. が、相変わらず彼女部屋へは、の来る気配も見えなかった。
  82. そのうちに遠慮なく更け渡って、彼女耳に入ると言ってはどこかで鳴いている蟋蟀ばかりに なった。
  83. のみならず火の気のない部屋寒さは、敷き詰めの上から、次第に彼女ね ずみ繻子じゅ すを、そのの中の華奢な足を、水のように襲って来るのであった。
  84. 金花薄 暗いランプの火に、さっ きからうっとり見入っていたが、やがて身震い一つする と翡翠ひすい下がった耳を掻いて、 小さな欠伸噛 み殺した。
  85. するとほとんどそ のとたんにペンキ塗りの戸が勢いよく開い開いて、見慣れない一人外国人が、よろめくよ うにから入って来 た。
  86. その勢い烈しかったからであろう。
  87. テーブルの上のランプの火は、一しきりぱっと燃え上がって、妙に赤々と煤け狭い部屋の中に漲らせた。
  88. はそのまともに浴びて、一度はテーブル ののめりかかったが、すぐにまた立ち直ると、今度後ろたじろいで、今 し方閉まっペンキ塗りへ、どしりと背 中からもたれかかってしまった。
  89. 金花思わず立 ち上って、呆気にとられな がら、この見慣れない外国人姿視線投げかけた。
  90. 年頃三十五六でもあろうか。
  91. 縞目のあるらしい背広に、 同じ布地鳥 打帽かぶった、の大きい、顎髭のあ る、日に焼けた男であった。
  92. が、唯一つ合点の行かないことに、外国人には違いないにしても西洋人東洋人か、奇妙にそ の見分けがつかなかった。
  93. それが黒い髪の毛帽子の下からはみ出させて、火の消えパイプ銜えながら、戸口立ち塞がっている有様は、どう見ても泥 酔し通行人戸まどいでもしたらしく思われるのであった。
  94. 御用ですか。」
  95. 金花やや無気味な感じに襲われながら、やはりテーブ ルの前に立ちすくんだまま、詰るようにこう尋ねてみた。
  96. すると相手首を振って、中国語はわからないという合図を した。
  97. それから横銜えにしたパイプ離して、何やら意味のわか らない滑らかな外国語一言洩ら した。
  98. が、今度金花が、テーブルの上のランプに、耳環翡翠ちらつかせ ながら、振って 見せるより外 に仕方がなかったた。
  99. 彼女当惑したように、美しい眉を顰めたのを見ると、突然大声笑いな がら、無造作に鳥打帽脱ぎ離して、よろよろこちらへ歩み寄った。
  100. そしてテーブルの向こう椅子へ、腰が抜けたように尻を下ろした。
  101. 金花はこの時この外国人が、いつどこという記憶はないにしても、確かに見覚えがあるような、一種の親しみ感じ出した。
  102. 無遠慮にの上の西瓜つまみながら、といってそれを噛むでもなく、じろじろ金 花を眺めていたが、やがてまた妙な手真似まじりに何か外国語しゃべり出した。
  103. その意味彼女には わからなかったが、ただこの外国人彼女商売に、多少理解持っていることは、お ぼろげながらも推測がついた。
  104. 中国語を知らない外国人と、長い一夜を明かすことも、金花には珍しいことではなかった。
  105. そこで彼女椅子にかけると、ほとんど習慣になっている、愛想の好い微笑を見せ ながら、相手には全然通じない冗談などを言い始めた。
  106. が、はその冗談がわか るのではないかと疑われるほど、一言二言しゃべっては、上機嫌な笑い声を挙げながら、前よりもさらに目まぐるしくいろいろな手真似使い出した。
  107. 吐く酒臭かった。
  108. しかしその陶然と赤くなったは、この索寞とした部屋空気が、明るくなるかと思うほど、男らしい活力溢れていた。
  109. 少なくともそれは金花にとっては、日頃見慣れている南京同国人言うまでもなく、今まで彼女が見 たことのある、どんな東洋西洋外国人よ りも立派であった。
  110. が、それにもかかわらず、前 にも一度このを見た覚えがあるという、さっき感じだ けはどうしても打ち消すことができなかった。
  111. 金花は、か かった、黒い巻き毛眺めな がら、気軽そうに愛嬌を振り撒くうちにも、このに初めて遇った時の記憶を、一生懸命呼び起こそうとした。
  112. こ の間肥っ奥さん一緒に画舫が ぼう乗っていた 人かしら。
  113. いやいや、あの人はが、もっ とずっと赤かった。
  114. では秦淮しんわい孔子こうしへ、写真機向けていた人かもしれない。
  115. しかしあの人はこのお客より、年をとっていたような気がする
  116. そうそう、いつか利渉橋りしょうきょう飯館の 前に、人だかりがしていると思ったら、ちょうどこのお客によくた 人が、太い振り上げて、人 力車夫背中打っていたっけ
  117. 事によると、——が、どうもあの人のは、もっと青かったよう だ。……」
  118. 金花がこんな事を考えて いるうちに、相変わらず愉快そうな外国人は、いつの間にかパイプ煙草つめて、匂い好い吐き出していた。
  119. それが急にまた何とか言って、今度おとなしくにやにや笑うと、片手二本伸ばして、金花眼の前突き出しながら、?という意味身ぶりを した。
  120. 二本が二ドルという金 額示していることは、もちろん誰の眼にも明ら かであった。
  121. が、泊めない金花は、器用に西瓜鳴らして、という二度ばかり、こ れも笑い顔振って見せた。
  122. するとはテーブルの上に横柄 に両肘もたせかけたまま、薄 暗いランプの中に、近々と酔顔さし延ばして、じっと彼女見守ったが、やがてまた三本出して、待つような眼つきをした。
  123. 金花ちょ いと椅子ずらして、西瓜口 に含んだまま、当惑したようなになった。
  124. 確かに二 ドルのでは、彼女体を任せな いと言ったように思っているらしかった。
  125. といって言葉の通じないに、立ち入っ仔細飲み込ませることは、到 底でき そうにも思われなかった
  126. そこで金花今更の ように、彼女軽率後悔しながら、涼 しい視線転じて、仕方なく更にきっぱりともう一度振って見せた。
  127. ところが相手の外国人は、しばらく薄笑いを浮かべながら、ためらうよ うな気色示し四本さし延ばして、何かま た外国語しゃべって聞かせた。
  128. 途方に暮れ金花抑えて、微笑す る気力なくなっていたが、咄嗟にもうこうなった上は、いつまでも振り続けて、相手思い 切る時を待つ外はない決心した。
  129. が、そう思ううちにもの手は、何かに見えないも のでも捕らえるように、とうとう五 指とも開いて しまった。
  130. それから、二人長い間手真似身ぶりと の入り交じっ押し問答続けていた。
  131. その根気よく一本ずつ増しあげくしまいには十ドルの金を出しても、惜しくないという意気込みを示すようになった。
  132. が、娼婦には大金の十ドルも、金花決心動かせせなかった。
  133. 彼女さっ きから椅子離れて、斜めににテーブルの前へたたずんでいたが、相手両手を見せる と、苛立たしそうに足踏みして、何度も続けさまに振った。
  134. そのとたんにど ういう拍子か掛かっていた十字架外れて、かすかな金属音を立てながら、足もと敷石の 上に落ちた。
  135. 彼女慌 ただしく手を延ばして、大切な十字架拾 い上げた。
  136. その時何気なく十字架彫られた、受難キリストを見ると、不思議にもそれがテーブルの向こう外国人生き写しであった。
  137. 何だかどこかで見たようだと思ったのは、このキリストのおだったのだ。」


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  139. 金花繻子じゅす上衣に、真 鍮しんちゅう十字架押し当てたまま、テーブルを隔てへ、思わず驚き視線投げた。
  140. やはりランプに、酒気を帯び火照らせながら、時々パイプ吐 いては、意味あり げな微笑浮かべていた。
  141. しかもその彼女姿へ、——恐らく白い首筋から翡翠ひ すい下げあたりへ、絶えずさまよっているらしかった。
  142. しかしこういう様 子も、金花には優しい一種の威厳に、充ち満ちみちみちて いるかのような気がした。
  143. やがてパイプ止めると、わざとらしく小首を傾けて、何やら笑い声言葉をかけた。
  144. それが金花には、ほとんど巧妙な催 眠術師が、被術者囁き聞かせる、暗 示のような作用を起こした。
  145. 彼女はあの健気な決心も、全く忘れてしまったのか、そっとほほ笑みを浮かべながら眼を伏せて、真鍮し んちゅう十字架を手でまさぐりながら、この怪しい外国人へ、恥ずかしそうに歩 み寄った。
  146. ズボンポケット探って、じゃらじゃらをさせながら、依然薄 笑い浮かべるで、しばら く金花立ち姿好ましそうに眺めて いた。
  147. が、そのの中の薄 笑いが、のあるような変ったと思うと、いきなり椅子から飛び上がって、匂いのする背広に、力一杯金花抱きすくめた。
  148. 金花ま るで喪心したように、翡翠ひすい耳環下 がっぐったりと後ろ仰向けたまま、しかし、蒼白いに は、鮮やかなの色をほのめかせて、鼻の先迫っへ、恍惚とした薄 目注いでいた。
  149. この不思議な外国人に、彼女自由にさせるか、それとも移さないために、接吻はねつけるか、そんな思慮をめぐらす余裕は、もちろんどこにも見 当らなかった。
  150. 金花だらけの口に、彼女の口を任せながら、ただ燃えるような恋愛歓喜が、初めて知った恋愛歓喜が、激しく彼女胸元へ、突き上げて来るのを知るばかりであった。……





  151. 数時間ランプ消え部屋の中には、かすかな蟋蟀こおろぎが、寝台から洩れる二人寝息に、寂しい秋 意加えていた。
  152. しかしその金花は、埃 じみ寝台から、屋根の上にある星月夜ほしづきよへ、けむりの ように高々とた かだか昇っのぼって 行った。


  153. * * *

  154. ——金花紫檀したん椅子座って、 テーブルの上に並んでいる、さまざま料理箸をつけていた。
  155. 燕の巣つ ばめのす鮫の 鰭ふかのひれ蒸した卵むしたたまご燻した鯉いぶしたこい豚の丸煮ぶたのまるに海参の羹ま なこのあつもの、——料理は いくら数えても、到底数え尽くされなかった。
  156. しかもそ の食器ことご とくべた一面に青い蓮華れんげ鳳凰ほうおう描き立てた、立派な小鉢ば かりであった。
  157. 彼女椅子後ろには、絳紗こ うしゃとばり垂れがあって、 そのまたには川が あるのか、静かな水のかいが、絶えずここまで聞えて来た。
  158. それがどうも彼女には、幼少の 時から見慣れて いる、秦淮しんわいの ような気がした。
  159. しかし彼女が今いるは、確かに天国にある、キリストに違いな かった。
  160. 金花は時々止めて、テーブルの周囲眺めまわした。
  161. が、広い部屋の中に は、彫刻のあるだの、大輪鉢植えだのが、料理湯気仄めいているは、一人人影は見えなかった。
  162. それにもかかわらずテー ブルの上には、食器一つになると、たちまちどこからか新しい料理が、温かな香気漲らせて、彼女の前へ運ばれて来た。
  163. と思うと、 またつけないうちに、丸焼 ききじなぞ羽ばたきをして紹興酒しょ うこうしゅび ん倒しながら、部屋天井ばたばたと、舞い上がってしまうこともあった。
  164. そのうちに金花誰か一人音もなくもなく彼女椅子後ろへ、歩み寄ったのに気づいた。
  165. そこで持ったま ま、そっと後ろ振り返って見た。
  166. するとそこにはど ういう訳か、あると思ったがなくて、緞子どんす蒲団ふとん敷い紫檀し たん椅子に、見慣れない一人外国人が、真鍮しんちゅう水煙管み ずぎせる銜えながら、悠々と腰を下ろしていた。
  167. 金花はその男を一目見ると、それが今夜彼女部屋へ、泊りに 来た男だというがわかった。
  168. が、唯一つ違うには、ちょうど三 日月のようなが、 この外国人の上、一しゃ くばかりそらかかって いた。
  169. その時また金花の前には、何だか湯気の 立つ大皿一つ、まるでテーブルから湧いたように、突然美味そうな料理運んで来た。
  170. 彼女はすぐに挙げて、の中の珍味はさもうとしたが、ふと彼女後ろにいる外国人の 事を思い出して、肩越しかたごし見 返りみかえりながら、
  171. あなたもここへいらっしゃいませんか。」と、遠慮がちに声をかけた。
  172. まあ、お前だけお食 べ。
  173. それを食べるとお前の病気が、今夜のうちによくなるから。」
  174. 円光戴い外国人は、やはり水煙管み ずぎせる銜えくわえた まま、無限むげんあい含んふ くん微笑び しょう洩らしも らした。
  175. ではあなたは召し上がらめしあがらな いのでございますか。」
  176. かい。 は中国料理は嫌いきらいだ よ。
  177. お前はまだ知らないのかい。
  178. イエス・キリストまだ一度も、 中国料理を食べたことはないのだよ。」
  179. 南京ナンキンキリストはこう言ったと思うと、お もむろに紫檀したん椅子いす離れは なれて、呆気にとられあっけて いる金花ほ おへ、後ろから優しいやさしい接吻せっぷん与えあたえた。


  180. * * *

  181. 天国さめたのは、すでに秋 の明け方が、狭い部屋うすら寒く拡がり出しであった。
  182. が、埃臭いとばり垂れた、小舸しょ うかのような寝台の中には、さすがにまだ生温かい仄かな残って いた。
  183. その薄暗がり浮かんでいる、半 ば仰向い金花は、もわからない毛布に、円 い括り顎隠したまま、い まだに眠い開かなかった。
  184. しかし血色の悪いには、昨夜くっ ついたのか、べったり油じみ髪が乱れて、心もち開いにも、糯米もちごめの ように細かい歯が、かすかに白々とのぞいて いた。
  185. 金花眠り覚めた今でも、の花や水の音やきじ丸焼きイエス・キリストや、そのい ろいろな記憶に、うとうとさまよわせていた。
  186. が、そのうちに寝台の中が、だんだん明るくなって来ると、彼女の快い夢見心にも、傍若無人現実が、昨夜不思議な外国人一緒に、 この寝台上っが、はっきりと意識踏み込んで来た。
  187. もしあの人に病気でも移した ら、——」
  188. 金花はそう考えると、急に暗くなって、今朝再び見るに堪えないような気がした。
  189. が、一度覚め以上なつかしい日に焼けをいつまで も見ずにいるは、なお さら彼女には堪えられなかった。
  190. そこでしばらくためらっ彼女おずおず開いて、今はもう明るくなっ た寝台の中を見 回した。
  191. しかしそこには思いもよらず毛布蔽われた彼女は、十字架イエスはもちろ ん、人の影さえも見えなかった。
  192. ではあれもだったかし ら。」
  193. 垢じみ毛布はねのけるが早いか金花寝台の上に起 き直った。
  194. そして両手擦ってから、そうに下っとばり掲げて、まだ渋いのままで部屋の中を見回した。
  195. 部屋冷ややかな空気の中に、残 酷なぐらい歴々とあ りありとあらゆる輪廓描いて いた。
  196. 古びたテーブル、火の消えたランプ、それから一脚倒れ一脚向かっている椅子、——すべて昨夜の ままであった。
  197. そればかりか現にテーブルの上では、西瓜散らばった中に、小さな真鍮しんちゅう十字架じゅうじかさ え、鈍いにぶい光を放っひか りをはなっていた。
  198. 金花まばゆそ うにしばたたいて、茫 然とぼうぜんとあたり見 回しながら、しばらく取り乱しと りみだし寝台の上で、さむそうに横坐りよ こずわりをしたまま姿勢し せい改めあらためな かった。
  199. やっ ぱりゆめで はなかったのだ。」
  200. 金花はこう呟きつぶやきな がら、さまざまにあの外国人不可解なふかかいな行方ゆくえ思いやった。
  201. もちろん考えるまでもなく、彼女眠っているひ まに、そっと部屋抜け出しぬ けだして、帰ったかもしれないという気はした。
  202. しかしあれほど彼女愛撫しあいぶが、一言もひとことも別れを惜しまわ かれをおしまずに、行ってしまったということは、信じしんじら れないというよりも、むしろ信じるに忍びなかっに しのびなかった。
  203. その上そ のうえ彼女は あの怪しいあ やしい外国 人から、まだ約束や くそくの十ドルのさえ、もら うことを忘れていたのであった。
  204. それとも本当に帰ったのかしら。」
  205. 彼女重苦しいおもくるしいむね抱きだきな がら、毛布もうふの 上に脱ぎ捨てぬ ぎすてた、く ろ繻子じゅ す上衣う わぎひっかけようとした。
  206. が、突然と つぜんその手を止めると めると、彼女にはみる みるうちに生き生きいきいきし たの 色が拡がりひ ろがり始めた。
  207. それはペンキ塗りの向こうに、あの怪しいあやしい外国人足音あしおとで も聞こえたためであろうか。
  208. あるいはまたまくら毛布もうふ染みた、酒臭いさけくさい彼 の移り香う つりがが、偶然ぐうぜん恥ずかしいは ずかしい昨夜ゆ うべ記憶き おく呼 び覚ましよびさましたためであろうか。
  209. いや金花はこの瞬間しゅんかん彼女の体に起こっおこっ奇蹟きせきが、一夜のうちにいちやのうちに跡形もなくあ とかたもなく悪性を極めあくせいをきわめ梅毒ばいどく癒しいやした ことに気づいたのであった。
  210. ではあの人がキリストだったの だ。」
  211. 彼女思わず下着し たぎのまま、転ぶころぶよ うに寝台しんだい這い下りるはいお りると、冷たいつ めたい敷き石しきいしの 上に跪いひざまづいて、再生さいせいしゅ言葉を交しことばをかわした、美しいうつくしいマグダラのマリアのように、熱心なねっしんな祈祷きとうをささげ捧げ出し た。……





  212. 翌年のある宗金花訪れた、若い日本の旅行家再び薄暗いランプで、彼女と テーブルをテーブルを挟んでいた。
  213. まだ十字架掛けてあるじゃないか。」
  214. その何かの拍子に冷やかすようにこう言うと、金花急に真面目になって、一夜南京降っキリストが、彼女癒したという、不思議 な話を聞かせ始めた。
  215. その話を聞きながら、若い日本の旅行家は、 こんなことを独り考えていた。
  216. ——おれはその外国人を知っている。
  217. あいつは日本人とアメリカ人との混血児だ。
  218. 名前は確 かGeorge Murryとか言っっけ
  219. あいつはおれの知 り合いロイター電報局通 信員に、キリスト教を信じている、南京娼婦一晩買っ て、その女がすやすや眠っているに、そっと逃げて来たという話を得意そうに話したそうだ。
  220. おれがこの前に来た時には、ちょうどあいつもおれと同じ上海のホテルに泊って いたから、だけは今でも覚えて いる。
  221. 何でもやはり英字新聞の通信員だと称していたが、男振り似合わない、人の悪そうな人間だっ た。
  222. あいつがその後悪性の梅毒から、とうとう発狂してしまったのは、事によるとこの女の病気が伝染したのかもしれない。
  223. しかしこの女は今になっても、ああいう無頼な混血児イエス・キリストだと思っている。
  224. おれは一体この女 のために、蒙を啓いてやるべきであろうか。
  225. それとも黙っ永久に昔の西洋の伝説のようなを見させてお くべきだろうか……」
  226. 金花の話が終わった 時、彼は思い出したようにマッチを擦って、匂いの高い葉巻ふかし出 した。
  227. そしてわざと熱心そうなふりを して、こんな窮し質問をした。
  228. そうかい。それは不思議だな。
  229. だが、——だが、お前は、その後一度も煩わないかい。」
  230. ええ、一度も。」
  231. 金花西瓜囓りな がら、晴れ晴れと輝かせ て、少しもためらわずに返事をした。

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