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南京の基督本文
- 南京の基督
- 芥川龍之介
- 一
- ある秋の夜半であった。
- 南京奇望街の
ある家の一間で、色の青ざめた中国の少女が一人、古びたテーブルの上に頬杖をついて、盆に入れた西瓜の種を退屈そうに噛み破って
いた。
- テーブルの上には置きランプが、薄
暗い光を放っていた。
- その光は部屋の中を明るくすると言うよりも、むしろいっそう陰鬱な効果を与えていた。
- 壁紙の剥げかかった部屋の隅には、毛布のはみ出した籐の寝台があって、埃臭そうな帷を垂らしていた。
- それから、テーブルの向こうには、これも古びた椅子が一脚、まるで忘れら
れたように置き捨ててあった。
- が、その外はどこを見ても、装飾らしい家具の類なぞは何一つ見当らなかった。
- 少女はそれにもかかわらず、西瓜の種を噛みやめては、時々涼しい眼を上げて、テーブルの一方に面した壁をじっと眺めやることがあった。
- 見るとなるほどその壁には、すぐ鼻の先の折れ釘に、小さな真鍮の十字架がつつましやかに掛かって
いた。
- そしてその十字架の上には、稚拙な受難のキリストが、高々と両腕をひろげながら、手ずれた浮き彫の輪廓を影のようにぼんやり浮か
べていた。
- 少女の眼は、このイエスを見
る毎に、長い睫毛の後ろの寂しい色が、一瞬どこかへ見えなくなって、その代わりに無邪気な希望の光が、生き生きとよ
みがえっているらしかった。
- が、すぐにまた視線が移ると、彼女は必ず吐息を漏らして、光沢の
ない黒繻子の上衣の肩を所在なさそうに落としながら、もう一度盆の西瓜の種をぽつりぽつり噛み出すのであった。
- 少女は名を宋金花と言って、貧しい家計を助けるために夜々そ
の部屋に客を迎える、当年十五歳の娼婦で
あった。
- 秦淮に
多い娼婦の中には、金花程度の容貌の持ち主なら、何人でもいるに違いなかった。
- が、金花ほど気立ての優しい少女が、二人とこの土地にいるかどう
か、それは少なくとも疑
問であった。
- 彼女は朋
輩の娼婦と違って、嘘もつかなければ我がままも言わず、夜毎
に愉快そうな微笑を浮かべて、この陰鬱な部屋を訪れる、さまざまな客と戯れていた。
- そして、彼等の払って行く金が、稀に約束の額より多かった時は、たった一人の父親に、一杯でも余計に好きな酒を飲ま
せてやることを楽しみにしていた。
- こういう金花の行状は、
もちろん彼女の生まれつきにも、よっているに違いなかった。
- しかしまだその外に何か理由があるとしたら、それは金花が子供の時から、壁の上の十字架が示す通り、亡くなった母親に教えられた、ローマ・カトリック教の信
仰をずっと持ち続けているからであった。
- ——そう言えば今年の春、上海の競馬を見物かたがた、南部中国の風光を探りに来た若い日本の旅行家が、物好きにも金花の部屋で一夜を明かしたことがあった。
- その時彼は葉巻を銜えて、洋服の膝に軽々と小さな金花を抱いていたが、ふと壁の上の十字架を見ると、不
審そうな顔をしながら、
- 「お前はキリスト教徒かい。」
- と、おぼつかない中国語で話しかけた。
- 「ええ、五つの
時に洗礼を受
けました。」
- 「そしてこんな商売をしているのかい。」
- 彼の声にはこの瞬間、皮
肉な調子が交じったようであった。
- が、金花は彼の腕に、鴉髻の頭をもたせかけながら、いつもの通り晴れ晴れと、糸
切歯の見える笑みを洩らした。
- 「この商売をしなければ、お父様も私も餓え死をしてしまいますから。」
- 「お前の父親は老人なのかい。」
- 「ええ——もう腰も立たないのです。」
- 「しかしだね、——しかしこんな稼業を
していたのでは、天国に行けないと思いはしないか。」
- 「いいえ。」
- 金花はちょ
いと十字架を眺めながら、考え深そうな眼つきになった。
- 「天国にい
らっしゃるキリスト様は、きっと私の気持ちを汲み取ってくださると思いますから。
- ——それでなければキリスト様は姚家巷の警察署のお役
人も同じ事ですもの。」
- 若い日本の旅行家は微笑した。
- そして上衣のポケットを探ると、翡翠の耳環を一双出して、手
ずから彼女の耳へ下げてやった。
- 「これはさっ
き日本へ土産に買った耳環だが、今夜の記念にお前にやる
よ。」——
- 金花は初めて客をとった夜から、実際こういう確信に自ら安
んじていたのであった。
- ところが、かれこれ一月ばかり前から、この敬虔な娼婦は不幸にも、悪性の梅毒を病む体
になった。
- これを聞いた朋輩の陳山茶は、痛みを止めるの
によいと言って、アヘン酒を飲むことを教えてくれた。
- その後またやはり朋輩の毛迎春は、彼女自身が服用した汞
藍丸や迦路米の残りを、親切にもわざわざ持って来てくれた。
- が、金花の病はどう
したものか、客をとらずに引きこもっていても、一向に快方には向かわなかっ
た。
- するとある日陳山茶が、金花の部屋へ遊びに来た時に、こんな迷信じみた療法を尤もらしく話して聞かせた。
- 「あなたの病気はお客から移った
のだから、早く誰かに移し返しておしまいなさいよ。
- そうすればきっと二三日中に、よくなってしまうに違いな
いわ。」
- 金花は頬杖をついたまま、浮かない顔色を改めな
かった。
- が、山茶の言葉に
は多少の好奇心を動かした
とみえて、
- 「ほんとう?」と、軽く聞き返した。
- 「ええ、ほんとうだわ。
- 私の姉
さんもあなたのように、どうしても病気が治らなかったのよ。
- それでもお客に移し返した
ら、じきによくなってしまったわ。」
- 「そのお客はどうなった
の?」
- 「お客はそれはか
わいそうよ。
- おかげで目までつぶれたって言うわ。」
- 山茶が部屋を去った後、金花は独り壁にかけた十字架の前に跪いて、受難の
キリストを仰ぎ見ながら、熱心にこういう祈祷を捧げた。
- 「天国にいらっしゃるキリスト様。
- 私はお父様を養うために、いやしい商売を致しております。
- しかし私の商売は、私一人を汚す外には、誰にも迷惑はかけておりません。
- ですから私はこのまま死んでも、必ず天国に行
けると思っておりました。
- けれども唯今の私は、お客にこの病を移さない限り、今までのような商売を致して参ることはで
きません。
- して見ればたとえ餓え死をしても、——そうすれば、この病も、治るそうでございますが、——お客と一つ寝台に寝ないように、心がけねばなるまいと存じます。
- さもなければ私は、私どもの幸せの
ために、怨みもない他人を不幸せに致すことになりますから。
- しかし何と申しても、私は女でございます。
- いつ何時どんな誘惑に陥らないもので
もございません。
- 天国にいらっしゃるキリスト様。
- どうか私をお守りくださいまし。
- 私はあなたお一人の外に、頼るもののない女でございますから。」
- こう決心した宗金花は、その後山茶や迎春に
いくら商売を勧められても、強情に客を
とらずにいた。
- また時々彼女の部屋へ、なじみの客が遊びに来
ても、一緒に煙草でも吸い合う外に、決して客の意に従わなかった。
- 「私は恐しい病気を持っているのです。
- 側へいらっしゃると、あなたにも移りますよ。」
- それでも、客が酔って
でもいて、無理に彼女を自由にしようとすると、金花はいつもこう言って、実際彼女の病んでいる証
拠を示すことさえはばからなかった。
- だから客は彼女の部屋には、おいおい遊びに来
なくなった。
- と同時にまた彼女の家計も、一
日毎に苦しくなっていった。……
- 今夜も彼女はこ
のテーブルに寄りかかって、長い間ぼんやり座ってい
た。
- が、相変わらず彼女の部屋へは、客の来る気配も見えなかった。
- そのうちに夜は遠慮なく更け渡って、彼女の耳に入る音と言っては、唯どこかで鳴いている蟋蟀の声ばかりに
なった。
- のみならず火の気のない部屋の寒さは、床に敷き詰めた石の上から、次第に彼女の鼠繻子の靴を、その靴の中の華奢な足を、水のように襲って来るのであった。
- 金花は薄
暗いランプの火に、さっ
きからうっとり見入っていたが、やがて身震いを一つする
と翡翠の輪の下がった耳を掻いて、
小さな欠伸を噛
み殺した。
- するとほとんどそ
のとたんに、ペンキ塗りの戸が勢いよく開い開いて、見慣れない一人の外国人が、よろめくよ
うに外から入って来
た。
- その勢いが烈しかったからであろう。
- テーブルの上のランプの火は、一しきりぱっと燃え上がって、妙に赤々と煤けた光を狭い部屋の中に漲らせた。
- 客はその光をまともに浴びて、一度はテーブル
の方へのめりかかったが、すぐにまた立ち直ると、今度は後ろへたじろいで、今
し方閉まったペンキ塗りの戸へ、どしりと背
中からもたれかかってしまった。
- 金花は思わず立
ち上って、呆気にとられな
がら、この見慣れない外国人の姿の方へ視線を投げかけた。
- 客の年頃は三十五六でもあろうか。
- 縞目のあるらしい茶の背広に、
同じ布地の鳥
打帽をかぶった、眼の大きい、顎髭のあ
る、頬の日に焼けた男であった。
- が、唯一つ合点の行かないことに、外国人には違いないにしても、西洋人か東洋人か、奇妙にそ
の見分けがつかなかった。
- それが黒い髪の毛を帽子の下からはみ出させて、火の消えたパイプを銜えながら、戸口に立ち塞がっている有様は、どう見ても泥
酔した通行人が戸まどいでもしたらしく思われるのであった。
- 「何か御用ですか。」
- 金花はやや無気味な感じに襲われながら、やはりテーブ
ルの前に立ちすくんだまま、詰るようにこう尋ねてみた。
- すると相手は首を振って、中国語はわからないという合図を
した。
- それから横銜えにしたパイプを離して、何やら意味のわか
らない滑らかな外国語を一言洩ら
した。
- が、今度は金花の方が、テーブルの上のランプの光に、耳環の翡翠をちらつかせ
ながら、首を振って
見せるより外
に仕方がなかったた。
- 客は彼女が当惑したように、美しい眉を顰めたのを見ると、突然大声で笑いな
がら、無造作に鳥打帽を脱ぎ離して、よろよろこちらへ歩み寄った。
- そしてテーブルの向こうの椅子へ、腰が抜けたように尻を下ろした。
- 金花はこの時この外国人の顔が、いつどこという記憶はないにしても、確かに見覚えがあるような、一種の親しみを感じ出した。
- 客は無遠慮に盆の上の西瓜の種をつまみながら、といってそれを噛むでもなく、じろじろ金
花を眺めていたが、やがてまた妙な手真似まじりに、何か外国語をしゃべり出した。
- その意味も彼女には
わからなかったが、ただこの外国人が彼女の商売に、多少の理解を持っていることは、お
ぼろげながらも推測がついた。
- 中国語を知らない外国人と、長い一夜を明かすことも、金花には珍しいことではなかった。
- そこで彼女は椅子にかけると、ほとんど習慣になっている、愛想の好い微笑を見せ
ながら、相手には全然通じない冗談などを言い始めた。
- が、客はその冗談がわか
るのではないかと疑われるほど、一言二言しゃべっては、上機嫌な笑い声を挙げながら、前よりもさらに目まぐるしく、いろいろな手真似を使い出した。
- 客の吐く息は酒臭かった。
- しかしその陶然と赤くなった顔は、この索寞とした部屋の空気が、明るくなるかと思うほど、男らしい活力に溢れていた。
- 少なくともそれは金花にとっては、日頃見慣れている南京の同国人は言うまでもなく、今まで彼女が見
たことのある、どんな東洋西洋の外国人よ
りも立派であった。
- が、それにもかかわらず、前
にも一度この顔を見た覚えがあるという、さっきの感じだ
けはどうしても、打ち消すことができなかった。
- 金花は、客の額にか
かった、黒い巻き毛を眺めな
がら、気軽そうに愛嬌を振り撒くうちにも、この顔に初めて遇った時の記憶を、一生懸命に呼び起こそうとした。
- 「こ
の間肥った奥さんと一緒に、画舫に乗っていた
人かしら。
- いやいや、あの人は髪の色が、もっ
とずっと赤かった。
- では秦淮の孔子様の廟へ、写真機を向けていた人かもしれない。
- しかしあの人はこのお客より、年をとっていたような気がする。
- そうそう、いつか利渉橋の側の飯館の
前に、人だかりがしていると思ったら、ちょうどこのお客によく似た
人が、太い籐の杖を振り上げて、人
力車夫の背中を打っていたっけ。
- 事によると、——が、どうもあの人の眼は、もっと瞳が青かったよう
だ。……」
- 金花がこんな事を考えて
いるうちに、相変わらず愉快そうな外国人は、いつの間にかパイプに煙草をつめて、匂いの好い煙を吐き出していた。
- それが急にまた何とか言って、今度はおとなしくにやにや笑うと、片手の指を二本伸ばして、金花の眼の前へ突き出しながら、?という意味の身ぶりを
した。
- 指二本が二ドルという金
額を示していることは、もちろん誰の眼にも明ら
かであった。
- が、客を泊めない金花は、器用に西瓜の種を鳴らして、否という印に二度ばかり、こ
れも笑い顔を振って見せた。
- すると客はテーブルの上に横柄
に両肘をもたせかけたまま、薄
暗いランプの光の中に、近々と酔顔をさし延ばして、じっと彼女を見守ったが、やがてまた指を三本出して、答を待つような眼つきをした。
- 金花はちょ
いと椅子をずらして、西瓜の種を口
に含んだまま、当惑したような顔になった。
- 客は確かに二
ドルの金では、彼女が体を任せな
いと言ったように思っているらしかった。
- といって言葉の通じない彼に、立ち入った仔細を飲み込ませることは、到
底でき
そうにも思われなかった。
- そこで金花は今更の
ように、彼女の軽率を後悔しながら、涼
しい視線を外へ転じて、仕方なく更にきっぱりと、もう一度頭を振って見せた。
- ところが相手の外国人は、しばらく薄笑いを浮かべながら、ためらうよ
うな気色を示した後、四本の指をさし延ばして、何かま
た外国語をしゃべって聞かせた。
- 途方に暮れた金花は頬を抑えて、微笑す
る気力もなくなっていたが、咄嗟にもうこうなった上は、いつまでも首を振り続けて、相手が思い
切る時を待つ外はないと決心した。
- が、そう思ううちにも客の手は、何か眼に見えないも
のでも捕らえるように、とうとう五
指とも開いて
しまった。
- それから、二人は長い間手真似と身ぶりと
の入り交じった押し問答を続けていた。
- その間に客は根気よく、一本ずつ指の数を増したあげく、しまいには十ドルの金を出しても、惜しくないという意気込みを示すようになった。
- が、娼婦には大金の十ドルも、金花の決心は動かせせなかった。
- 彼女はさっ
きから椅子を離れて、斜めににテーブルの前へたたずんでいたが、相手が両手の指を見せる
と、苛立たしそうに足踏みして、何度も続けさまに頭を振った。
- そのとたんにど
ういう拍子か、釘に掛かっていた十字架が外れて、かすかな金属の音を立てながら、足もとの敷石の
上に落ちた。
- 彼女は慌
ただしく手を延ばして、大切な十字架を拾
い上げた。
- その時何気なく十字架に彫られた、受難のキリストの顔を見ると、不思議にもそれがテーブルの向こうの外国人の顔と生き写しであった。
- 「何だかどこかで見たようだと思ったのは、このキリスト様のお顔だったのだ。」
- 金花は黒繻子の上衣の胸に、真
鍮の十字架を押し当てたまま、テーブルを隔てた客の顔へ、思わず驚きの視線を投げた。
- 客はやはりランプの光に、酒気を帯びた顔を火照らせながら、時々パイプの煙を吐
いては、意味あり
げな微笑を浮かべていた。
- しかもその眼は彼女の姿へ、——恐らくは白い首筋から翡翠の環を下げた耳のあたりへ、絶えずさまよっているらしかった。
- しかしこういう客の様
子も、金花には優しい一種の威厳に、充ち満ちて
いるかのような気がした。
- やがて客はパイプを止めると、わざとらしく小首を傾けて、何やら笑い声の言葉をかけた。
- それが金花の心には、ほとんど巧妙な催
眠術師が、被術者の耳に囁き聞かせる、暗
示のような作用を起こした。
- 彼女はあの健気な決心も、全く忘れてしまったのか、そっとほほ笑みを浮かべながら眼を伏せて、真鍮の十字架を手でまさぐりながら、この怪しい外国人の側へ、恥ずかしそうに歩
み寄った。
- 客はズボンのポケットを探って、じゃらじゃら銀の音をさせながら、依然薄
笑いを浮かべるた眼で、しばら
くは金花の立ち姿を好ましそうに眺めて
いた。
- が、その眼の中の薄
笑いが、熱のあるような光に変ったと思うと、いきなり椅子から飛び上がって、酒の匂いのする背広の腕に、力一杯金花を抱きすくめた。
- 金花はま
るで喪心したように、翡翠の耳環の下
がった頭をぐったりと後ろへ仰向けたまま、しかし、蒼白い頬の底に
は、鮮やかな血の色をほのめかせて、鼻の先に迫った彼の顔へ、恍惚とした薄
目を注いでいた。
- この不思議な外国人に、彼女の体を自由にさせるか、それとも病を移さないために、彼の接吻をはねつけるか、そんな思慮をめぐらす余裕は、もちろんどこにも見
当らなかった。
- 金花は髭だらけの客の口に、彼女の口を任せながら、ただ燃えるような恋愛の歓喜が、初めて知った恋愛の歓喜が、激しく彼女の胸元へ、突き上げて来るのを知るばかりであった。……
- 二
- 数時間の後、ランプの消えた部屋の中には、唯かすかな蟋蟀の声が、寝台から洩れる二人の寝息に、寂しい秋
意を加えていた。
- しかしその間に金花の夢は、埃
じみた寝台の帷から、屋根の上にある星月夜へ、煙の
ように高々と昇って
行った。
* * *
- ——金花は紫檀の椅子に座って、
テーブルの上に並んでいる、さまざまな料理に箸をつけていた。
- 燕の巣、鮫の
鰭、蒸した卵、燻した鯉、豚の丸煮、海参の羹、——料理は
いくら数えても、到底数え尽くされなかった。
- しかもそ
の食器がことご
とく、べた一面に青い蓮華や金の鳳凰を描き立てた、立派な皿小鉢ば
かりであった。
- 彼女の椅子の後ろには、絳紗の帷を垂れた窓があって、
そのまた窓の外には川が
あるのか、静かな水の音や櫂の音が、絶えずここまで聞えて来た。
- それがどうも彼女には、幼少の
時から見慣れて
いる、秦淮の
ような気がした。
- しかし彼女が今いる所は、確かに天国の町にある、キリストの家に違いな
かった。
- 金花は時々箸を止めて、テーブルの周囲を眺めまわした。
- が、広い部屋の中に
は、竜の彫刻のある柱だの、大輪の菊の鉢植えだのが、料理の湯気に仄めいている外は、一人も人影は見えなかった。
- それにもかかわらずテー
ブルの上には、食器が一つ空になると、たちまちどこからか新しい料理が、温かな香気を漲らせて、彼女の眼の前へ運ばれて来た。
- と思うと、
また箸をつけないうちに、丸焼
きの雉なぞが羽ばたきをして紹興酒の瓶を倒しながら、部屋の天井へばたばたと、舞い上がってしまうこともあった。
- そのうちに金花は誰か一人、音もなくもなく彼女の椅子の後ろへ、歩み寄ったのに気づいた。
- そこで箸を持ったま
ま、そっと後ろを振り返って見た。
- するとそこにはど
ういう訳か、あると思った窓がなくて、緞子の蒲団を敷いた紫檀の椅子に、見慣れない一人の外国人が、真鍮の水煙管を銜えながら、悠々と腰を下ろしていた。
- 金花はその男を一目見ると、それが今夜彼女の部屋へ、泊りに
来た男だという事がわかった。
- が、唯一つ彼と違う事には、ちょうど三
日月のような光の環が、
この外国人の頭の上、一尺ばかりの空にかかって
いた。
- その時また金花の眼の前には、何だか湯気の
立つ大皿が一つ、まるでテーブルから湧いたように、突然美味そうな料理を運んで来た。
- 彼女はすぐに箸を挙げて、皿の中の珍味をはさもうとしたが、ふと彼女の後ろにいる外国人の
事を思い出して、肩越しに彼を見
返りながら、
- 「あなたもここへいらっしゃいませんか。」と、遠慮がちに声をかけた。
- 「まあ、お前だけお食
べ。
- それを食べるとお前の病気が、今夜のうちによくなるから。」
- 円光を戴いた外国人は、やはり水煙管を銜えた
まま、無限の愛を含んだ微笑を洩らした。
- 「ではあなたは召し上がらな
いのでございますか。」
- 「私かい。
私は中国料理は嫌いだ
よ。
- お前はまだ私を知らないのかい。
- イエス・キリストはまだ一度も、
中国料理を食べたことはないのだよ。」
- 南京のキリストはこう言ったと思うと、お
もむろに紫檀の椅子を離れて、呆気にとられて
いる金花の頬へ、後ろから優しい接吻を与えた。
* * *
- 天国の夢がさめたのは、すでに秋
の明け方の光が、狭い部屋中にうすら寒く拡がり出した頃であった。
- が、埃臭い帷を垂れた、小舸のような寝台の中には、さすがにまだ生温かい仄かな闇が残って
いた。
- その薄暗がりに浮かんでいる、半
ば仰向いた金花の顔は、色もわからない古毛布に、円
い括り顎を隠したまま、い
まだに眠い眼を開かなかった。
- しかし血色の悪い頬には、昨夜の汗にくっ
ついたのか、べったり油じみた髪が乱れて、心もち開いた唇の隙にも、糯米の
ように細かい歯が、かすかに白々とのぞいて
いた。
- 金花は眠りが覚めた今でも、菊の花や水の音や雉の丸焼きやイエス・キリストや、その外い
ろいろな夢の記憶に、うとうと心をさまよわせていた。
- が、そのうちに寝台の中が、だんだん明るくなって来ると、彼女の快い夢見心にも、傍若無人な現実が、昨夜不思議な外国人と一緒に、
この籐の寝台へ上った事が、はっきりと意識に踏み込んで来た。
- 「もしあの人に病気でも移した
ら、——」
- 金花はそう考えると、急に心が暗くなって、今朝は再び彼の顔を見るに堪えないような気がした。
- が、一度眼が覚めた以上、なつかしい彼の日に焼けた顔をいつまで
も見ずにいる事は、なお
さら彼女には堪えられなかった。
- そこでしばらくためらった後、彼女はおずおず眼を開いて、今はもう明るくなっ
た寝台の中を見
回した。
- しかしそこには思いもよらず、毛布に蔽われた彼女の外は、十字架のイエスに似た彼はもちろ
ん、人の影さえも見えなかった。
- 「ではあれも夢だったかし
ら。」
- 垢じみた毛布をはねのけるが早いか、金花は寝台の上に起
き直った。
- そして両手で眼を擦ってから、重そうに下った帷を掲げて、まだ渋い眼のままで部屋の中を見回した。
- 部屋は冷ややかな朝の空気の中に、残
酷なぐらい歴々と、あらゆる物の輪廓を描いて
いた。
- 古びたテーブル、火の消えたランプ、それから一脚は床に倒れ、一脚は壁に向かっている椅子、——すべてが昨夜の
ままであった。
- そればかりか現にテーブルの上では、西瓜の種が散らばった中に、小さな真鍮の十字架さ
え、鈍い光を放っていた。
- 金花は眩そ
うに眼をしばたたいて、茫
然とあたりを見
回しながら、しばらくは取り乱した寝台の上で、寒そうに横坐りをしたまま姿勢を改めな
かった。
- 「やっ
ぱり夢で
はなかったのだ。」
- 金花はこう呟きな
がら、さまざまにあの外国人の不可解な行方を思いやった。
- もちろん考えるまでもなく、彼は彼女が眠っている暇に、そっと部屋を抜け出して、帰ったかもしれないという気はした。
- しかしあれほど彼女を愛撫した彼が、一言も別れを惜しまずに、行ってしまったということは、信じら
れないというよりも、むしろ信じるに忍びなかった。
- その上彼女は
あの怪しい外国
人から、まだ約束の十ドルの金さえ、もら
うことを忘れていたのであった。
- 「それとも本当に帰ったのかしら。」
- 彼女は重苦しい胸を抱きな
がら、毛布の
上に脱ぎ捨てた、黒繻子の上衣をひっかけようとした。
- が、突然その手を止めると、彼女の顔にはみる
みるうちに、生き生きし
た血の
色が拡がり始めた。
- それはペンキ塗りの戸の向こうに、あの怪しい外国人の足音で
も聞こえたためであろうか。
- あるいはまた枕や毛布に染みた、酒臭い彼
の移り香が、偶然恥ずかしい昨夜の記憶を呼
び覚ましたためであろうか。
- いや、金花はこの瞬間、彼女の体に起こった奇蹟が、一夜のうちに跡形もなく、悪性を極めた梅毒を癒した
ことに気づいたのであった。
- 「ではあの人がキリスト様だったの
だ。」
- 彼女は思わず下着のまま、転ぶよ
うに寝台を這い下りると、冷たい敷き石の
上に跪いて、再生の主と言葉を交した、美しいマグダラのマリアのように、熱心な祈祷を捧げ出し
た。……
- 三
- 翌年の春のある夜、宗金花を訪れた、若い日本の旅行家は再び薄暗いランプの下で、彼女と
テーブルをテーブルを挟んでいた。
- 「まだ十字架が掛けてあるじゃないか。」
- その夜彼が何かの拍子に、冷やかすようにこう言うと、金花は急に真面目になって、一夜南京に降ったキリストが、彼女の病を癒したという、不思議
な話を聞かせ始めた。
- その話を聞きながら、若い日本の旅行家は、
こんなことを独り考えていた。
- ——「おれはその外国人を知っている。
- あいつは日本人とアメリカ人との混血児だ。
- 名前は確
かGeorge Murryとか言ったっけ。
- あいつはおれの知
り合いのロイター電報局の通
信員に、キリスト教を信じている、南京の娼婦を一晩買っ
て、その女がすやすや眠っている間に、そっと逃げて来たという話を得意そうに話したそうだ。
- おれがこの前に来た時には、ちょうどあいつもおれと同じ上海のホテルに泊って
いたから、顔だけは今でも覚えて
いる。
- 何でもやはり英字新聞の通信員だと称していたが、男振りに似合わない、人の悪そうな人間だっ
た。
- あいつがその後悪性の梅毒から、とうとう発狂してしまったのは、事によるとこの女の病気が伝染したのかもしれない。
- しかしこの女は今になっても、ああいう無頼な混血児をイエス・キリストだと思っている。
- おれは一体この女
のために、蒙を啓いてやるべきであろうか。
- それとも黙って永久に昔の西洋の伝説のような夢を見させてお
くべきだろうか……」
- 金花の話が終わった
時、彼は思い出したようにマッチを擦って、匂いの高い葉巻をふかし出
した。
- そしてわざと熱心そうなふりを
して、こんな窮した質問をした。
- 「そうかい。それは不思議だな。
- だが、——だが、お前は、その後一度も煩わないかい。」
- 「ええ、一度も。」
- 金花は西瓜の種を囓りな
がら、晴れ晴れと顔を輝かせ
て、少しもためらわずに返事をした。
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copyright © 2009 Yuka Morikawa, Mika Nagasu & Tatsuya Kitamura
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